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からっぽな日常に色をつける

沼は深い②

 

次にハマった沼は図ったかのように10年間だけの、青春の大部分の情熱を注いだものだった。

メトロノームというバンドをご存知だろうか?

ヴィジュアル系というジャンルの中に存在し、テクノポップな電子音とロックの融合を果たしたシーンの中ではかなり革新的なバンドだったと私は思っている。

 

元々クラフトワークYMOゲルニカなどその手の音楽を小さなころから聞いていた(完璧に両親のせいである)私にとってその音楽はすぐに耳に馴染み、離すことの出来ない存在になっていた。

母親とその友達が当時小さなライブハウスへ行くのにハマっていた時期に見たのがメトロノームとの出会いなのだが、その後初めてのCDを手に入れるまでに2年近く掛った。幾度となくメンバーチェンジが繰り返され、バンドとして安定してCDを出したのが2001年の夏の事だった。生で彼らを見ることができない代わりに何度も何度もCDを聞いていたのだが、ついに中学生になり都内のライブなら行ってきてもいいわよと母親から許可を貰い彼らのライブに通い詰める日々を送ることになるのである。

ライブのチケット代は実家の神社の手伝いをして工面し、月に2~3回のライブを心待ちにしていた中学生時代。この頃インターネットがもっと発達していれば「ガキが来てんじゃねえよ」とか書かれていただろうが、ようやく携帯電話の液晶がカラーになった時代だったので、周りのお姉さんたちにとても優しくしてもらったことを覚えている。周りの方々がとても優しく様々な事を教えてくれたので、所謂黒歴史を作ることもなく健全にバンギャとしての人生を歩んでいた。この時の経験が無ければ、今痛いジャニオタおばさんになっていたかもしれない……と思うくらいには、社会勉強になったのだ。

そして、時は過ぎ高校生になった私はいよいよ合法的にアルバイトが出来るので、必死になり高時給のアルバイトを探した。アルバイトをしてはライブに通うその繰り返しだった。この頃からだろうか、好きなバンドも増えあれもこれも手を出して、急激に私の世界は広がっていった。それとともに世界が1つまた1つ消えていく(ヴィジュアル系バンドというものは解散活休メンバーチェンジの多さも特徴)2007年にメトロノームもドラムのユウイチローが脱退し1つの区切りを迎えたように思われたが、その年に新たなメンバーのシンタローが加入したことにより、音に柔らかさを兼ね備えた素敵なバンドになっていった。

2008年は大学に入学し通学時間の増加・バイトも増やし・敬愛する祖父の死去という私生活が趣味の時間を圧迫するような、息苦しい一年だった。

この頃は「メトはそこそこなところで長く続くんじゃないかな」なんて思っていて、必死にライブに通わなくなっていた。祖父の入退院、葬式、遺産相続などの手続きは母と私で行っていたので全く余裕が無かった。2008年の12月に祖父が亡くなったので、諸々の手続きが終わったのは2009年の1月も末の頃だった。

 

2009年2月10日、メトロノームは5月31日渋谷公会堂でのライブをもって活動を休止するとの旨のお知らせを受け取った。

Please Push Pause(通称PPPツアー)と名付けられたそのワンマンツアー、去年行けなかったぶん今年はメトにたくさん行こうと考えていた私にとって、これを逃したらこの人達が舞台上で笑っている姿なんてもう見られないかもしれない、と考え、かなり無理なスケジュールで遠征を連発し、悔いの無いように、その姿を目に焼き付けた。

そして2009年5月31日この10年間わたしの青春のほとんどを捧げたバンドは表舞台から消えてしまった。

アンコールを4回やって、笑顔でステージから捌けていった、お客さんも皆笑顔だった。この日、一人の私が死んで新しい私が生まれること無く死んで、心が乾いて満たされなくて、藻掻いて(ゾンビモードで生きていくことになりました)

 

ゾンビモードの呪いから解き放たれて、ちゃんと生きていくのは次回のブログで。